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東京高等裁判所 平成7年(ネ)2314号 判決

主文

一  原判決を次の通り変更する。

二  被控訴人は、控訴人佐藤久子に対し金一一〇万円、控訴人佐藤竜久に対し金五五万円、控訴人宮下睦美に対し金五五万円、及びこれらに対する平成元年七月八日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

三  控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを一〇分し、その九を控訴人らの、その余を被控訴人の各負担とする。

五  主文第二項は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  当事者の求める裁判

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人佐藤久子に対し金三四七八万九六六四円、被控訴人佐藤竜久に対し金一五七一万六九〇一円、被控訴人宮下睦美に対し金一五七一万六九〇一円、及びこれらに対する平成元年七月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人に負担とする。

4  2につき仮執行宣言。

二  被控訴人

1  本件控訴をいずれも棄却する。

2  控訴費用は控訴人らの負担とする。

第二  事案の概要

本件の事案の概要は、原判決一〇頁三行目の次に以下の文を加えるほかは、原判決の事実及び理由「第二 事案の概要」欄の記載のとおりであるから、これを引用する。

「4 救急医療体制の不備に関する控訴人らの主張

およそ救急指定病院としては、相当な経験を有する医師団による当直医制度を設けるなど、経験の少ない当直医を補う体制を整えてしかるべきである。しかるに、被控訴人においては、医師免許取得後一年余りの経験しか有しない訴外岡本医師一人に当直させ、院長らが急報を聞いて病院に到着するまでに数十分を要したため、守を救命する機会が失われた。

四 控訴人らの予備的主張(「期待権」の侵害について)

仮に訴外岡本医師の過失または被控訴人の債務不履行と守の死亡との間に相当因果関係が認められないとしても、被控訴人は守に対し救急病院として期待される適切な救急医療を怠ったものであり、守及び控訴人の有する期待権を侵害した。」

第三  争点に対する判断

一  本件の事実経過(日付は、特に断らない限り、平成元年七月八日である。)

次のとおり改めるほか、原判決一〇頁六行目以下から一七頁五行目までの記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一三頁八行目の「対外心マッサージ」を「体外心マッサージ」と、一四頁五行目の「抹消脈拍」を「末消脈拍」と、それぞれ改める。

2  同一五頁六行目の「供述をしている。」を「供述をし、甲一三号証及び同六〇号証(いずれも控訴人竜久作成の陳述書)、同一四号証(控訴人久子作成の「医療法人緑成会横浜総合病院に関する記録日誌」と題する書面)、同五二号証(同控訴人作成の陳述書)にはこれに沿う記載がある。」と改める。

3  同一六頁一一行目の「判別がつかない」の次に「(なお、前記6のとおり、守が集中治療室に入室したのは、午前六時ころである。)」を加える。

二  守の死因について

1  本件においては、守の病理解剖がされていないので、その死因については病歴、事実経過等から推察せざるを得ない。

2  守の死因について、医学専門家の意見は以下のとおりである。

(一) 鑑定人福島雅典(同鑑定人の鑑定書)は、平成元年六月一三日に撮影された守の胸部X線写真と死亡当日の同様のX線写真との対比上、守の心胸比が四六パーセントから六二パーセントに著明に拡大していること等から、後壁心筋梗塞がまず起こり、引き続いて広汎な梗塞が起こり、急速に心不全となり、心原性ショック状態に陥ったとし、解離性大動脈瘤等の鑑別すべき疾患はいずれも本件のように電撃的経過で心不全に至り、チアノーゼを呈して心肺停止するような経過をたどるものではなく、解離性大動脈破裂は、胸部X線写真における上縦隔陰影の幅から見て考えにくいし、過去の写真上も動脈瘤は指摘し得ないとしている。

(二) 鑑定人早川弘一(同鑑定人の鑑定書及び鑑定人説明調書)は、守の死因を急性心筋梗塞と積極的に判断することは困難であるとし、その理由として、守の発症から急変に至るまでの主な症状が背部痛であったこと、診察時には心窩部痛を伴い、痛みが移動ないし拡大したと判断できるが、通常の心筋梗塞ではこのような症状は見られないこと、急性心筋梗塞では、梗塞の範囲が広範であるか、致死的不整脈を伴うのが普通であり、守のように自動車を運転したり、どんどん歩くことは不可能であることを挙げている。そして同鑑定人は、守の病態は、下行大動脈解離→解離の破裂→急死であった可能性があるとし、その理由として、守には昭和五九年ころから大動脈弓の突出が認められ、大動脈解離の主要な原因である大動脈硬化が進展していた可能性があること、背部痛と痛みの拡大あるいは移動は、解離の開始と進展に対応し、急変時の激烈な背部痛(?)とともに発生した急激なショックは大動脈の破裂で説明できること、ICUにおける「腹部しだいに膨満」との記載は、大動脈から腹腔内への大出血と解釈できることを挙げている。

なお、同鑑定人は、原審第二三回口頭弁論期日において、守の大動脈解離は上行大動脈をも巻き込んでいるかも知れないと述べている。

(三) 原審証人森功及び甲三九、四五号証(いずれも同証人の意見書)は、守については不安定型狭心症から切迫性心筋梗塞を疑うのが妥当であるとし、その理由として、心筋梗塞に至る狭心症の場合の胸痛はクレッセンド型で一ないし五分で寛解することが重要な特徴であること、これに対し、胸部大動脈瘤の胸痛は激烈な疼痛で始まり、モルヒネを用いても軽快せず、血管・迷走神経反射のために冷汗、不穏状況、悪心、嘔吐、失神を来すことが多いこと、心筋梗塞による背部痛は正中にあることが広く認められていること、守の死亡時の腹部膨満は、蘇生法によるものであること等を述べている。

(四) 甲四〇号証(中里武の意見書)は、心筋梗塞の痛みは「静」の痛みであるのに対し、大動脈解離の痛みは七転八倒するような痛みであるが、守は、途中で交替しているものの、自動車の運転までし、どんどん歩いて受診していること、下行大動脈解離であれば、背部の痛みの発生部位は、下背部(腰背部)となるはずであるが、守の場合、上背部痛であったこと、下行大動脈解離の破裂があった場合、後腹膜壁で囲まれている後腹膜腔内で出血し、ショックに至る経過はゆるやかで、すぐに心肺停止を来すものではないことを述べている。

(五) 当審証人森透及び甲五五号証、六一号証の一(いずれも同証人作成の書面)も、右森功と同様の見解を示し、さらに、急性大動脈解離で急性期に破裂により突然の死亡の転機をとるのはDeBakey分類Ⅰ型またはⅡ型であり、心嚢内破裂による急性心タンポナーテがほとんどの原因であること、これに対し胸部下行大動脈以下に眼局される同Ⅲ型では急性期には降圧療法を中心として保存的治療を行うものであること、同Ⅰ型の症例では腹部大動脈抹消まで解離が及ぶのが普通であるから、胸部の痛みのほか、腰背部痛などの症状があるべきであり、患者はショックまたはそれに近い状態で病院に運び込まれるのが普通であることを挙げている。

右の各意見((二)の鑑定人早川の意見を除く。)を総合すれば、守の死因としては、不安定型狭心症から切迫性急性心筋梗塞に至り、心不全を来したことにあると認めるのが相当である。

鑑定人早川は、守の病態を急性心筋梗塞と判断することは困難であるとしているが、その理由として挙げる諸点(痛みの発生場所、その移動ないし拡大、自動車の運転及び歩行)は、必ずしも急性心筋梗塞を否定する根拠となるものではなく、かえって同鑑定人がいうように大動脈解離の可能性があるとすると、守の現実の病態に合わない点(上行大動脈解離にしては痛みの程度が軽く、寛解もしていること、下行大動脈解離にしては痛みの発生位置が高く、かつ、急激な転機を経ていること)もあることが前掲の他の医学専門家によって指摘されていることに照らして、採用し難い。

三  守の救命可能性について

次のとおり改めるほか、原判決二二頁一一行目の「守は、」以下三〇頁五行目までの記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決二三頁六行目、二四頁一行目、二五頁六行目の「森証言」をいずれも「原審証人森功の証言」と改める。

2  同二四頁二行目から八行目までを次のとおり改める。

「鑑定人福島雅典は、本件においては、広汎な心筋梗塞による急性心不全の可能性が高いので、救命は困難であったと推察されるとし、但し、初診時に心電図を記録し、心筋梗塞と診断を確定して直ちにCCUまたはICUにて適切な救急治療が行われたならば、確率は二〇パーセント以下ではあるが、救命できた可能性は残る、としている。

また、原審証人森功及び甲五六号証の一(同証人の意見書)は、第一治心室細動では、蘇生率は九〇パーセントを超えるとし、同号証の六(鈴木知己、平盛勝彦「治療法の進歩と急性心筋梗塞症の予後」日本臨牀五二巻一九九四年増刊号五九九頁)、同号証の七(青木英彦、平盛勝彦「急性心筋梗塞症の集中治療」同誌同号六八二頁)には、CCU治療の進歩により急性心筋梗塞症の院内死亡率は一〇パーセント前後に減少した旨の記載がある。

しかし、守の発症が急激であったこと、これに対して患者を狭心症と診断してから心電図等の措置をとるまでには一〇分程度の時間を要すること(原審証人森功)、被控訴人の病院には集中治療室が設置されていたが、それがCCUと評価し得るだけの組織であったとは認めるに足りないこと、わが国の救急病院の実情から見て、早期の時間帯における蘇生を必要とするわずか一〇分ないしは二五分の間に救命の可能性のある治療を高い水準で施行することを求めても現実的にはたいへん困難であること(前記甲六一号証の一)等からすると、適切な治療をすれば守を救命することが可能であったと認めることはできないというほかない。」

3  同二八頁四行目の「抹消血管」を「末梢血管」と改め、同一一行目の「甲四六号証」の次に「、乙一二、一三号証」を加える。

四  救急医療体制の不備に関する控訴人らの主張について

控訴人は、医療免許取得後一年余りの経験しか有しなかった訴外岡本は救急治療の当直医として不適格であったとか、被控訴人としては相当な経験を有する医師団を組織し、経験の少ない当直医を補う体制を整えておくべきであったと主張する。しかし、控訴人らの右主張は法的根拠を欠く独自の見解であって採用し難い。のみならず、訴外岡本の作為、不作為と守の死亡との間には相当因果関係があるとは認められないこと前記のとおりであるから、仮に被控訴人において控訴人らの主張するような救急医療体制を整備すべき義務があり、その違反があったとしても、そのことと守の死亡との間にも相当因果関係があると認めることはできないものといわなければならない。

五  「期待権」の侵害について

前記認定のとおり、訴外岡本は、背部痛及び心窩部痛を訴えていた守を診察するにあたり、血圧等、ヴァイタルサインのチェックや心電図の測定を行っておらず、また、狭心症を疑いながらニトログリセリンの舌下投与も行っていないなど、胸部疾患の可能性のある患者に対する初期治療として行うべき基本的義務(福島鑑定、原審証人森功の証言、当審証人森透)を果たしていなかったことが認められる。

なお、原審証人岡本は、守について聴診、触診、視診及び問診により守の身体の状況を把握した旨証言するが、これをもって同人が右の基本的義務を果たしたということはできない。

診療契約は、患者の病気の治癒ないし救命自体を目的とするものではないが、医師としてはそれに向けて最善の手段方法を選択し、医療水準に適った医療を施すべき義務を負うものである。したがって、仮に患者を救命することが可能であったとはいえない場合においても、医師としては、診療契約上の義務として、また、不法行為法上も、最善を尽くすべき義務があるのであり、これを怠った場合には、これにより患者が適切な医療を受ける機会を不当に奪われたことによって受けた精神的苦痛を慰藉すべき責任があるというべきである。

本件において、守の適切な初期治療を受けられなかったことによる精神的苦痛に対する慰謝料としては、二〇〇万円をもって相当とする。なお、本件の場合、右の守の慰謝料とは別に控訴人ら固有の損害として右義務違反による精神的苦痛に対する慰謝料を認めるのは相当ではない。

そして、右不法行為(使用者責任)に基づく守の弁護士費用相当の損害金としては二〇万円をもって相当とする。

六  結論

以上によれば、控訴人らの請求は、控訴人らの各相続分に応じ、主文二項記載の各金額及びこれに対する不法行為の日である平成元年七月八日から各完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余は理由がないから、これと異なる原判決はその限度において変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

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